船橋本町通りにかつて存在した遊郭。海神新地へ移転する前の話
船橋市、本町通りに存在した遊廓。船橋市の遊廓・赤線というと移転後の海神新地の方がイメージが強いが、かつて宿場町として栄えた本町通り沿いにも遊廓が存在しました。
今回の記事では、情報が少ない、本町通りに存在した遊廓の情報をまとめます。
船橋本宿に存在した遊廓建築
千葉県船橋市本町3丁目。JR総武本線船橋駅南口から南へ進むと、かつて宿場町として栄えた「本町通り」がある。
以前、本町通りに面した老舗和菓子店「廣瀬直船堂」の記事で、隣に存在した遊廓建築について触れた。長年隣で営業をしていた廣瀬直船堂の方に話を伺ったが詳しい情報は得られず、ずっと疑問に思っていた。
古写真をもとに書いたイラスト↓
右側の建物が3階建て。1階では中華料理屋50番と栗林金物店が営業していたことは分かる。
『写真アルバム 船橋市の昭和』(2016年、佐々木高史、株式会社いき出版)によると、木造3階建ての建物は大正期の建造の旅館。だが、昭和30年代中頃に始まった耐火構造の店舗建築で解体されたという。
図書館で開催されていた写真の展示にも映っていた。→「船橋本町通り」昭和30年代の古写真と現在の商店街の街並み
当時の3階建て建築は本当に珍しいものだと思うので本町通り沿いでも特に目立っていたのではないかと思う。まるでお城。
一目見た時に、普通の建物ではないと考えた。
船橋の遊郭の変遷
遊郭が海神新地に移転するまでの経緯や現状は以前の記事でまとめた→船橋遊郭から海神新地への歴史。伝説の「ミネ」をはじめ、劇場も【船橋散策①】
海神新地の方には、平成21年まで遊廓建築とされていた「吾妻屋」が残っていたといわれ、船橋の遊廓は海神新地のイメージが強い。現在もその名残のお店が残っていたり…
だが、移転前は宿場町だった本町通りに、飯盛女と称する遊女を置き、半旅館半遊女屋として営業、その後、明治になって飯盛女は娼妓、業者は貸座敷業と名を変えて存続したという。
船橋大神宮に設置されている看板にも本町通りの中宿に「遊廓」の文字が書かれている。
本町通りは成田山新勝寺への参詣道、成田街道の最大の宿場町。そのため、旅人が遊廓に立ち寄るということも多く、夫婦で成田参詣はしない方が良いという文章も見たことがある。また、近くの習志野原に軍隊もあり、休日は賑わったという。
海神新地へ移転
門前に行列ができる盛況ぶりだったが、街の中心に女郎屋があるのは不名誉であるとの声が強まり、大正15年(1926)に千葉県の指令で貸座敷業は海神と九日市の入会地に移転させられることになった。
その場所を「新地遊郭」と呼ぶ。
新地遊郭は昭和3年(1928)に開業。従来の業者は転廃業したため、他の場所からの移入業者が多かったという。
そのため、本町通りに存在した遊廓建築は遊廓が移転した後は普通に店舗として使われていたのだろう。100年近く前の話。本町通りに面した遊廓を知っている人が少ないのも納得する。
遊郭についての情報
妓楼名
『船橋の電信電話』(昭和57年12月、日本電信電話公社船橋電報電話局発行)に3階建ての建物についての記述があった。
津多屋旅館の隣に三階建ての天満屋という遊女屋が写っております。
明治時代の絵葉書に、津多屋旅館と3階建ての木造建築が見える。
3階建ての遊廓建築、妓楼が「天満屋」という屋号だったことが分かった。
また、船橋町の電話創設頃の加入者名簿にも情報があった。(大正2年以降)
25 個人名 九日市1597 芸妓業
27 一力樓 海神394 貸座敷業
39 個人名(花月)九日市29 料理業
43 吉川内樓 九日市西浜田2365 貸座敷業
44 津多屋 九日市1800 旅館割烹業
関係のある情報だけ切り取った。先ほど紹介した津多屋旅館が44番。それ以外に4つほど、遊廓に関する電話番号が載っていた。
性病の検査
『船橋市市制施行80周年記念誌』(平成29年、市長公室広報課発行)に、遊廓について触れている証言があった。
その頃の本町の辺りは、呉服屋や染物屋が多かったですね。遊廓もたくさんありましたけど、昭和の始めに船橋駅の南側の「海神新地」にみんな移ったみたいです。祖父が医院もやっていて、感染症に詳しかったので、毎月花魁さんたちが花柳病(性病)の検査で病院を訪れていました。
性病の検査は遊廓では欠かせないもの。そうえいば、船橋の遊廓でこういう話を聞くのは初めてな気がする。
地元の方にとってはあまり公に残したい記録でもないのだと思う。とりあえず今回わかったことをこの場で留めておこう。
追記:御殿通りの道祖神社
地元の方から頂いた情報を追記します。
「御殿通りの道祖神社の愛染明王はご存知でしょうか?昔、遊廓の女性たちが縁結び、縁切りを願って訪れたと言います。」
御殿通りの道祖神社は西側、山口横丁近くにある神社。
「ふなばしおさんぽマップ」に説明がある。
船橋本町は通り五丁(町)。宿場町の江戸時代からでしょうか、1丁目から5丁目までの通り五
丁にそれぞれの「守神」。順番に「稲荷神社」「庚申様」「道陸神様」「弁天様」「御蔵稲荷」。【道祖神社】は三丁目の守神。地元では「どうろくじんさま」と親しみ境内には愛染明王、馬頭観音、三峰神社。道祖神は塞の神(さいのかみ)といわれ、外部からおそってくる疫病や悪霊よけ町の安全。愛染さまは染物、織物、水商売、商売繁昌に恋愛成就。
愛染明王は、水商売や商売繁盛…といったご利益があるというので遊女の方々が信仰していたというのも納得。ホームページには石仏は移されてきたと書いてあったので、元々は違う場所にあったのだろうか。
本町通りに遊廓が存在した面影は残っていないかと思っていたが、現在も裏通りの神社に息遣いが残っているようだ。
(執筆日:2021年9月)
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