船橋に残る「都疎浜バラック群」。”都疎浜”の歴史と周辺の商店街について

船橋に残る「都疎浜バラック群」。”都疎浜”の歴史と周辺の商店街について

船橋市の住宅街にある「都疎浜」。度々、ディープスポットとして取り扱われており知名度も高い場所だが、今回の記事では面白おかしく取り上げるのではなく客観的に「都疎浜」を考察してみようと思う。

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船橋の「都疎浜」の歴史

船橋駅から徒歩10分ほど、本町通りの南側。かつて「玉川旅館」や「三田浜楽園」があった西側に「都疎浜」と呼ばれる場所がある。

都疎浜へ

調べると、様々な記事が出てくる。
「都疎浜」の歴史について深堀りしてみよう。

2015年にNHKの「新日本風土記」でも放送されているのは驚いた。(動画がリンクから見れるのでぜひ!)

千葉県船橋市の住宅街、南本町(みなみほんちょう)の一角、通称「都疎浜(とそはま)」。太平洋戦争の末期、東京都から疎開した人が暮らす浜、という意味で名付けられました。疎開した人々に与えられたのは、草木も生えない荒れた浜辺でした。戦後の厳しい暮らしを、女性達が力をあわせて支えます。農村で着物と食料を交換してもらったり、診療所を作るなど、少しずつ暮らしやすい町へと変えていきました。苦難の歴史を乗り越え、新しく移り住む人たちと共に暮らす都疎浜です。

東京ドームと同じ面積に600世帯。
東京都からの疎開先になったため、「都疎浜」。名称の由来に納得。

昭和30年の住宅地図にも「都疎浜住宅地」との表示が。

一方、他の記事では「バラック住居群」「船橋のスラム街」「廃墟」「不法占拠」といった強烈な言葉が先走り、都疎浜のイメージを植え付けている。

正直、私も調べるまではそういうイメージしかなかった。
でも、実際は疎開して船橋に移り住んだ人々の「都疎浜」なのだ。

ちなみに、この一帯は、江戸時代までは「三田浜塩田」として開発されていたが、昭和初期に放置されていた場所。戦災者や引揚者が多く住み着いて「都疎浜住宅地」と呼ばれるようになった。

 

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「都疎浜」の商店街の面影

細い水路は「山谷澪」。船橋湊から魚通すためにつくられた水路だそうだ。漁村だった船橋の面影。昭和30年の地図には「船溜り」と記載されている。

現在の様子

Deep案内」に2010年の写真が載っている。でもどの記事もYouTube動画も、面白おかしく取り扱っているものが多くてなんだか嫌になるな…

2009年のストリートビュー

現在は、バラックの解体が始まっており、一部は綺麗な公園などに整備されている。バラックがあるのは水路側だが、向かい側には商店などが並んでいるので商店街のような雰囲気だった。

ストリートビューには居酒屋、精肉店、スズキストアーなどが映っている。今は新築に。

また、民家の手前にファミリープランの自動販売機があるので元薬局かも。

明るい家族計画

同じ並びに薬局と茶葉販売店。

健康堂薬局、大文字園

この辺りも商店街だったかは不明だが、個人商店が並んでいたのは確かだろう。

また、西側住宅街の中にある「都疎浜中央公園」の周りにも個人商店の面影があり、商店街だったのではと思う。青果店、豆腐店、酒屋…

2015年のストリートビュー

追記:
図書館で、1982年に発行された『25周年記念アルバム 船橋南本町商工親睦会』を見つけた。この本は、都疎浜の商店街を指しているので、「南本町商工親睦会」という名称であることが分かった。

加盟店舗数は、全部で57。公園の周辺を中心に、中通り、東通り、西通りと道が名付けられている。本には1店舗ずつ写真とともに紹介されており、商店街の賑わいを感じることができる。貴重な記録が残っていて本当に良かったです。

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都疎浜バラック住居群の現在

都疎浜に残るバラック住居群。解体されているのは主に北側で、南側にはまだ残っていた。

都疎浜のバラック

完全なる廃墟ではないとのこと。

現在の様子

残っている建物も老朽化が激しく、かなり危険な状況。

ボロボロだ
倒壊している?

某YouTube動画で、バラック内に無断で立ち入っている人がいたが、それはアウトだと思う。そういう冷やかしは失礼だ。

静かな通り
元工務店

徐々に左側の建物が解体されて空き地になっている。

更地になった

住宅街側にある建物も古そうだが、元商店だろうか?

商会の文字が見える
バラック街

コンクリート製ゴミ箱が放置されている。今となっては珍しいもの。

コンクリート製ゴミ箱

10年の間に建物がどんどん無くなっているので、次の10年後はもう見れないかも。

僅かに残る
広告が残る

漁港側へ。

右手は更地

今回調べて思ったのは、冷やかしで訪れている人が多いと思ったこと。

都疎浜を客観的に記録しているNHKはさすがだなと思った。バラックだけでなく、商店が並んでいる様子を記録している人はほぼいない。

都疎浜がどういう歴史を辿ってきたのか、先人の苦労を考えたらスラム街と自分の町が呼ばれているのはなんだか悲しくなるのではと勝手ながらに感じたのであった。

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2022年7月訪問追記

 

 

 

(訪問日:2021年2月)

 

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