船橋「廣瀬直船堂」創業300年を越える老舗和菓子屋で当時の様子を伺った
玉川旅館から船橋駅周辺を散策した船橋散策も第5回目。今回は、成田街道沿いの老舗「廣瀬直船堂」へ。廣瀬直船堂では、店主の方から貴重なお話を伺うことができた。老舗を記事で紹介して応援したい、そんな想いを強くしたひとときだった。
船橋駅から廣瀬直船堂へ
廣瀬直船堂は、千葉県船橋市船橋駅から徒歩10分弱。かつて船橋宿として栄えた成田街道沿いにある和菓子店だ。近くには、船橋大神宮があり、車の通行も多い。
廣瀬直船堂だけでなく、
森田呉服店などの老舗が現存している通りだ。
廣瀬直船堂は、創業は江戸時代初期創業!300年以上の歴史があります。
そして現存する建物は、1918年(大正7年)の木造の建物。
戦前の建物が、そのまま残っている。2016年には船橋大神宮にある灯明台とともに、景観重要建造物に指定された。
木製の看板とその下の七宝繋ぎ文(しっぽうつなぎもん)がとても印象的だ。
店内では、和菓子を中心に販売している。
子供向けのガチャガチャも懐かしい、雑多な雰囲気。
ロッテのレトロな看板も現存していた。
下の看板は、カラフルな線が入っているが、ネオンだろうか?
目移りしてしまう、様々な和菓子。
どれをお土産に…と悩んでいると、一番おすすめの商品を紹介してくださった。
醤油の煎餅である「関東焼」。これを求めに遠くから訪れる人も多いそうだ。
かなりサイズが豊富で、化粧箱に入っているものも。私もせっかくなのでと、1500円ほどのを購入したが、あっという間に家族で食してしまった。
今まで食べた煎餅の中で最も病みつきになる。カリっとしている、濃い醤油煎餅。
廣瀬直船堂さんから頂いた関東焼きの実際の写真↓
一袋に2枚入り。薄焼きの醤油味のお煎餅だ。
ホームページにて、通信販売も行っています。お煎餅以外のお菓子も購入できるので気になる方はぜひ!
老舗企業をこのような時期だからこそ、応援しましょう!
貴重なお話を伺う
かなり気さくな店主の方で、私が歴史を調べていると話をしたら様々なお話を話してくださった。
話題は、玉川旅館の話に。玉川旅館が取り壊しになったが他人事ではないという。市からの援助はほとんどなく、個人が経営を辞めると決断したらそれで終わってしまうらしい。
宰治ゆかりの船橋「玉川旅館」いよいよ取り壊し。登録有形文化財玉川旅館、最後の記録
川越など、街全体で歴史的建造物を観光地化している場所であればまた話は違うが、船橋はそういった取り組みが少ない。
また、近年の台風などの自然災害で瓦はもちろん、床にヒビも出来る始末…かなりのダメージを受けているようだ。
ヒビは至るところに入っている。
廣瀬直船堂は戦前、かなり儲かっていたようで、当時としては珍しく車3台を保有していた。
そしてその車で、習志野にあった陸軍までパンを届けていた。しかし、戦争で没収され、戦後は何も無くなったと嘆いていた。
店内の奥には、明治天皇が近くに滞在した時に有名な方に書いてもらった作品が展示されていた。
成田街道の当時の様子がわかる貴重な資料も展示されている。
大きな廣瀬大きなの看板は、当時は看板の大きさに比例して税金がかかったそうで、金箔の明治につくられた看板が目立っていたようだ。
また、廣瀬直船堂の近くでは、明治天皇船橋行在所の看板も設置されているので合わせてチェックしたい。
コロナ下でも臨機応変な対応
廣瀬直船堂のホームページを開くと、「コロナ応援価格20%OFF」の見出しがぱっと出てくる。コロナの影響を受けて、人気の味を全国の方にも届けられるようにと、ECを始めたようだ。老舗を守っていくためには、時代に適応した対応が求められるのである。
ちなみに廣瀬直船堂のTwitterアカウントも。いつも優しくコメントしてくださいます。
2012年の写真
過去の写真を漁っていたら、2012年の写真が出てきた。
今とそんなに変わらないかな?変わったことといえば、ガチャガチャが歩道から店舗に移ったことくらい?
追記:廣瀬直船堂の隣にあった遊廓建築?
廣瀬直船堂の昭和初期の写真を探していると、なんだかとても気になる写真があった。自分でイラストとして描いたものが↓
3階建てのまるで天守閣のような建物。1階には、中華料理の50番と栗林金物店。中華料理50番は現在もチェーン店として船橋市内で見かけたことがあるが、関係性があるのだろうか?昭和61年の住宅地図には、両店舗の名前が記載されている。いつまで建物が存在していたのか、とても気になる。
『写真アルバム 船橋市の昭和』(2016年、佐々木高史、株式会社いき出版)に写真が載っていたので引用する。
本町3丁目の広瀬菓子店右隣に一軒だけ残った旅館の建物。写真の建物は木造建築ながら洋風3階建ての大正期の建築である。昭和30年代なかごろにはじまった耐火構造の店舗建築で解体されている。船橋を代表する商店街である本町通りは、慶長19年(1614年)の東金街道開削にはじまる。常陸・下総・上総三国の落合村として交通の要所隣、継立場ができ人馬の往来でにぎわった。<昭和31年>
3階建ての建物はよく見ると3階の窓の手摺がシャレている。
しかし、次の写真では雨戸が閉まり、雰囲気が違う。
本町3丁目の広瀬菓子店、中華料理五十番と栗林金物店の店先風景。写真左端に現在も残っている森田呉服店のレンガ造りの塀が写っている。広瀬菓子店と森田呉服店の店舗は現在も当時のままで営業している。<昭和37年>
この写真についてブログで触れている方がいたが、その方は向かい側の「森田呉服店」の隣と記述している。しかし、写真で見ると、「廣瀬直船堂」の看板がしっかりと確認できるため、間違いだろう。そしてイラストの左手前にある塀は、森田呉服店の隣に現在も残っている。
最近気づいたのだが、煉瓦塀は「卯建、宇立(うだつ)」と呼ばれる延焼防止の防火壁かもしれない。古い街ではこうした煉瓦壁が隣家との間に残っていることがあるらしい。
しゃちほこらしきものまで頂部に存在する、異様な3階建ての建物は、遊廓だったのではないか?との見方もある。正確には遊郭というよりも、船橋宿には飯盛宿が多く存在していたため、その名残だろう。それにしても、他の場所でもあまり見かけたことが無いほど、立派な3階建ての建物。成田街道随一の宿場町、そして飯盛女がいたことを暗に示しているようだ。
現在は、損害保険ジャパン千葉西支店船橋支社の建物が建っている。昭和2年に松井天山が描いた鳥瞰図には、「名代ひろせ」の隣に、「廣瀬富五郎」と書いてある。もしかしたら、廣瀬直船堂の方の土地だったのかもしれない。3階建ての建物もしっかりとイラストに残っているのが興味深い。
…廣瀬直船堂の方には、今度、船橋宿の飯盛宿についても伺ってみたい。追記をお楽しみに。
(訪問日:2020年6月)
地域新聞で詳しく取材しました↓
【船橋市】宿場町の面影「廣瀬直船堂」。創業300年以上の老舗和菓子屋の、昭和初期の建築を見学
船橋の遊郭、赤線について↓
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