「行田商店街」と「海軍無線電信所船橋送信所」の跡地がある行田団地へ。

今回は「行田団地」。行田は面白い歴史があり、地図を見ると円形の形に中に団地の建物が並んでいるという珍しい場所だ。
行田団地の商店街と、かつてこの場所に存在した「船橋無線塔記念碑」の歴史を紹介する。
行田団地へ
千葉県船橋市行田3丁目。最寄り駅は、どこだろう?私は東武野田線「塚田駅」から徒歩30分くらいだったかな。
平成19年度の「陳情文書表」では、行田団地駅新設を求める声がある。それほど、住民にとっても駅は遠いのかもしれない。
地図では円形の地形も、歩いていると実感がないのが不思議。

行田団地は、昭和51年(1976)に造設された。
北側から歩いていたのだが、フェンスで囲まれている。どうやら、国家公務員住宅は今は使われていないようだ。廃墟化している。
行田団地は円の南側にあるようだ。

船橋無線塔記念碑
直径800mの円の中に行田団地がある。ここは、旧海軍の無線基地「海軍無線電信所船橋送信所」の跡地とされている。地元では、行田無線などと呼ばれるらしい。
最近は「珍百景」でも紹介されていたそうだ。
その記念碑が、現在も円の中央部分に建っている。

今まで訪れたかった場所。意外にもあっけなくて驚いた。L字型の白いモニュメントがあるだけだ。

記念碑には次のような文章が書かれている。
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年(1915年)に船橋海軍無線電信所が創設された。大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年(1923年)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和16年(1941年)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971年)5月解体され栄光の歴史を閉じた。
船橋無線塔の歴史がわかりやすく記載されている。
「ニイタカヤマノボレ」のフレーズは聞いたことがある方もいるのではないかな。私も聞いたことがあるが、まさか船橋だと知ったときは衝撃だった。
昭和46年に解体され、現在は団地が建っているという流れが面白い。
「行田無線塔」模型展示
船橋市郷土資料館にて、「行田無線塔」の模型展示があった。

模型展示があると全体像がとてもよくわかる!

昭和10年代には、鉄塔の高さは約60mから200mあったとされ、遠くからでも良く見えたのではないか。

戦後は進駐軍が接収、1966年に返還された。当時の写真を見ると、レンガ造りのような建物も見える。

56年の歴史に幕を閉じた行田無線。平成20年には、「近代文化遺産」に認定された。

船橋送信所の全景図。

さらに詳しい資料を見ると、円の端には正門、裏門があり、中央に電信室、兵員室など建物があったことがわかる。

行田無線の歴史はもう少し調べてみたいな。

千葉市にも「検見川送信所」の建物が残っている。
そこは、今も変わらず建物が残っており、保存運動も起こっている。以前「すごいお雑煮」で記事を書いたのでよかったら見てください。
行田商店街
塔の南にある「行田商店街」。

ちょっと看板が古くて地図が読みづらいな…

でも建物は新しそうだ。18店舗があるようだ。

Myfunaの記事「行田団地商店街/ 歴史遺産と緑に囲まれたマンモス団地の中で地元に親しまれる。」では2010年の様子が書いてある。

行田団地と近隣のNTT社宅、JR社宅、公務員社宅をあわせて2700世帯を数え、ヤング層やファミリー層の姿もよくみかける。
確かに郵便局や保育園はあるが、商店街としては静かだった。公務員社宅も閉鎖された影響かも?


統一看板がある。現在は、居酒屋や自家焙煎珈琲カフェは営業しているみたい。


三角の入り口もあって、商店街の雰囲気はある。

船橋給水場の姿が浮かぶ。

昔の写真と比べても変わらない姿に驚き。

行田団地。周辺の歴史も含めて考えるととても面白い場所だ。
塚田駅から向かい、帰りは海神駅へ。ちょっと駅からは離れているが、今度は円形道路を一周してみたい。
(訪問日:2020年12月)
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