【千葉新地遊廓】千葉新地と呼ばれた千葉の遊郭、新町~登戸周辺の妖艶な姿を聞き取り調査

【千葉新地遊廓】千葉新地と呼ばれた千葉の遊郭、新町~登戸周辺の妖艶な姿を聞き取り調査

千葉市の花街として有名な場所は県庁の近くにある「蓮池」だろう。しかし、千葉にはもう一つ遊廓としての歴史が残る街がある。それは千葉県千葉市中央区、新町から登戸にかけての一帯「千葉新地」

 

現在は、閑静な住宅地が広がっているが、当時を知る人から貴重なお話を伺うことができた。千葉新地が遊廓として栄えていたときの情景を可能な限り再現する。

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鳥瞰図で見る「千葉の遊廓」

千葉市の遊廓について知ったのは最近のことである。てっきり、花街と言えば蓮池だと思っていた。それくらい、現在は遊廓の跡形もなく歴史の表舞台から消えている千葉新地。千葉に住んでいる方でも、どこにあったのか、場所まで把握している人は少ないだろう。

私がその存在を知ったきっかけは、千葉の鳥瞰図だった。松井天山が書き残した鳥瞰図は、あらゆる場所の過去の姿を伝える貴重な資料であり、歴史好きにはたまらないだろう。(精密に書き残してくださってありがとうございます…)

昭和2年(1927年)5月、松井天山の鳥瞰図

昭和2年(1927年)5月に松井天山が描いた鳥瞰図によると、しっかりと「遊廓」の文字が見える。(黄色く囲った部分)

これほどしっかりと遊廓と表されているのも珍しいのではないだろうか。通称「新地の遊廓」と呼ばれていた。

 

そして、新町から登戸神社の方へと伸びる広い道は、旧江戸街道。江戸時代から明治中期頃まで登戸湊からの船便が、江戸への一般的なルートだったようだ。そして、「登戸宮野河岸遠浅なれば三味や太鼓で船つなぐ」と登戸の賑わいを伝えている。

そして、千葉新地の近辺には、度量衡大野製作所、天満宮、鷲神社、登戸神社、新千葉駅…と目印になりそうな場所も書かれている。現在の地図と見比べる際に、注目することにした。

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千葉新地(遊廓)について

千葉新地については、他の文献にもその詳細が描かれている。

『千葉繫昌記』

『千葉繫昌記』(明治24年発行)のに千葉新地の記述がある。(〇は解読できなかった文字)

貸座敷娼妓
千葉新地遊廓創設を企ごせしは東京の人原田新五郎なり其の許可を受けしは實に明治十二年にして廓地表は縣道に接し裏は作地に接するも〇上より寒川人家を経て海面を一望すれば風帆常々に往来し房総諸山雲間に聳え其風景頗る奇なり此地坪数は凡三千坪余にして門を東西に設け其西方の門外に鷲明神を安置し中央に會所を建設す樓上には梅毒検査場を作り(以下略)

明治12年、東京から来た原田新五郎によって千葉新地遊廓が誕生したことがわかる。坪数は3000坪。かなりの広さ。
門外に鷲明神を安置していたというのが気になる。どういったものだったのだろう?千葉新地の写真を見たことがないため、どこかに眠っていないか探してみたい。


廓地創設の頃は貸座敷六戸にして娼妓の数は四十名内外なり尤も此機に際し遊客の数夥し五六年の頃にいたり尚一層来客の増加せしことをかん〇商高は殆ど一日平均登百圓以上なりとす其貸座敷の盛衰少なからず創設者は已に死し聊か衰弱の兆候を呈表するも昨年来偏に再興の趣を呈し方今は武藏樓、原田樓、玉曙樓、小川樓、中村樓、睦樓、新原田樓、の八軒にして娼妓八十四人有毒の為め入院せしものは常に五名に下らず

創設者の原田新五郎が亡くなってから一時期は衰退した?らしいが、その後再興した模様。

樓主及び娼妓の細見左の如しと
貸座敷之部
山田 十四年一月許可 志方キヨ
玉曙 廿二年一月きょか 日置タマ
武藏 廿三年 月許可 鈴木金吾
中村 十六年六月許可 中村マツ
新原田 十八年四月許可 原田タマ
原田 (消えている) 原田大四郎
睦 (消えている) 今村フキ
小川 廿六年しちがつ許可 小川路雄

山田樓の志方キヨさんは、浅草信吉原から移転してきたらしい。娼妓についても細かく記載されており、どこの出身であるかが一目でわかる。

千葉新地
千葉市の両店に一廓あり。
妓楼七戸原田樓、武藏屋、山田屋、中村屋、新原田、錦糸、玉曙樓等にして多きは十四五名少きも八十九名を蓄ふ

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『千葉町案内』

『千葉町案内』(明治44年発行)

旅廓 は町の西端新町通りに大門があつて登戸の方へ抜ける、右側は玉曙、武蔵、静海樓、左側は小川、中村、原田、山田、静山の諸樓三層四層の屋を連ね、紅燈の下美人羅列して艶娜の色を競ひ、こゝ情界の有頂天国である。

「紅燈の下美人羅列して艶娜の色を競ひ」との一文から、かなり妖艶な世界が広がっていたのではないかと思われる。有頂天国とまで表現されているのは、誇張ではないとしたら相当なものだろう。

そして、鳥瞰図からもわかるように、周囲の建物よりも一段高い楼が立ち並び、入り口は大門で仕切られていることから、閉鎖的空間だったようだ。

 

遊廓の娼妓の数は以下の通り。出身は東京が多かったとされている。

明治28年(1895年)

原田楼 13人
武藏屋 16人
中村屋 11人
新原田 6人
睦楼 7人
玉曙楼12人
小川楼 9人

計86人の存在が確認できる。
明治20年頃までは、芸者よりも千葉新地の妓楼の方が人気が高かったらしく、蓮池の方面の旦那衆も通っていたのだとか。

広告のようなページに千葉新地の樓名が連なっている。(明治44年)

會開會進共縣葉千祝(右読み)
千葉新地
原田樓
小川樓
中村樓

山田樓
玉曙樓
静海樓
静山樓(イロハ順)

明治28年と明治44年を比較すると、若干入れ替わりもあるようだ。

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『全国遊廓案内』

全国遊廓案内』(昭和5年発行)によると、千葉新地は次のように書かれている。

千葉市遊郭
千葉
縣廳の所在地であつて鐵道に依る時は總武線千葉驛にて下車すれば自動車の便がある。
昔は千葉城主の城下として相當繁華であつたが天正年間千葉氏亡びてから、次第に衰へた。而し明治時代に至つて縣廳を置かれ行政上の中心となつたので、官公衙醫科大學校等設けられるにつれ、次第に遊廓も發展し現在では約十軒、八十人位の娼妓が居る。

 

『公娼と私娼』

『公娼と私娼』(昭和5年)

貸座敷指定地調
営業者数:11
娼妓数:73
遊興人員:61.851
遊興費:164.442

同じ千葉県内である船橋遊郭よりも少なく、松戸の遊郭とは同じくらいの営業者数であるものの、妓楼数は少ない。

 

『全国女性街ガイド』

全国女性街ガイド』(昭和30年)では貴重な青線についての記述もある。

千葉
芸者は百名。ここの花代はかわっていて料亭ではお約束百円、時間三百円、次の一時間から百五十円。旅館に入るとお約束百円、次時から二百円とプレミアムがつく。
赤線は十軒で二十五名。平均八百円で泊める。これ以外は小料理屋その他の青線で、全市内に万延、その数五百名といわれる房州女が網を張っている。

青線がかなり市中に広がっていたことがわかる。しかし、これだけの数だと青線について把握するのは難しそうだ。

 

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データで見る千葉新地(遊廓)の変遷

上記の文献から得た情報をもとに、千葉新地の変遷を比較してみる。

【貸座敷・娼楼数】
明治12年:6(設立当初)
明治24年:7
明治28年:7
昭和5年:10、11
昭和30年:10(赤線)
青線は千葉市内に万延

【娼妓数】
明治12年:40名(設立当初)
明治24年:145~89名
明治28年:86名
昭和5年:80人位、73名
昭和30年:25名
青線は500名ほど

設立当初から比べると、妓楼の数も娼妓の数も年々増えているようだ。赤線時代には女性の数は減り、赤線廃止とともに衰退していった流れが考えられる。それにしても青線の数がとてつもなく多いのには驚く。

文献の様子から、千葉新地のかつての姿を鳥瞰図をもとにイラストに起こした。

千葉新地のかつての姿
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追記:全国旅館等級別一覧

1949年(昭和24年)発行『全国市町村便覧』(全国教育図書)にて千葉市の旅館が「全国旅館等級別一覧表」に載っている。その中に、遊廓の時の妓楼名が残っている旅館を見つけた。(ランク1が最高)

2 牧乃屋
2 玉曙樓
3 柴田旅館
3 海気館
3 小川樓

玉曙樓と小川樓は、上記の遊廓の時の妓楼名が残っている。昭和24年というと、赤線廃止が昭和33年なので赤線地帯として旅館営業をしていたということだろうか。2と3のランクがついているので、かなり良い旅館だったのではないだろうか。他の場所ではあまり見られない傾向なので、とても気になる。

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早速千葉市、新町へ

千葉新地の名残が少しでもないかな…と思い、早速新町、登戸の方面へと向かった。千葉駅南口を降り、千葉都市モノレール1号線に沿って千葉街道を西へ進む。千葉街道は道幅も広く、交通量も多い。

モノレールが目の前に見える

都市化が進んでいるこの場所に、本当に遊郭が存在したのだろうか…そんな疑問を持ってしまう。

かつての大門

少し歩くと、交差点の右手に大きな洋館のような建物が見える。どうやら結婚式場の「千葉セントグレースヴィラ」だそうだ。確か、この結婚式場のあたりに大門があったと聞いたのだが…その名残は無さそうだ。

千葉セントグレースヴィラ

度量衡大野製作所へ

とりあえず、鳥瞰図にも存在していた「度量衡大野製作所」を目指して結婚式場の裏手を散策する。…男性募集の見るからに怪しいポスターが自動販売機の横に貼ってある。遊郭だった時の雰囲気を感じることができるような。

昭和31年の住宅地図を見ると、大野製作所は、かつて遊郭の隣に大きく構えていたが、時代の変遷とともに住宅街にあった場所を残すのみとなった。

昭和31年の度量衡大野製作所

計量機器メーカーの度量衡大野製作所は、創業1885年。1946年に現在の「株式会社千葉度量衡工業所」となり、千葉市花見川区千種町に本社と工場が移転している。

千葉市新田町から、花見川区へと移転し、新田町の建物はひっそりと静まり返っていた。

千葉新地にある度量衡大野製作所の建物

住宅地図を見ていて、家政婦斡旋…(緑色)が気になった。現在も、家政婦斡旋に関する看板が、民家の壁にあるのを見つけたからだ。なぜ、この場所にはその類が多いのか。他の場所ではあまり見かけたことが無い。もしかしたら、遊郭としての名残だろうか…

 

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新町公園と新町天満宮

大野製作所の近くには、新町公園。なんと、自転車の貸しサービスが公園内にあった。親切…

新町公園

新町公園から住宅街に挟まれた鳥居が見える。新町天満宮だ。

新町天満宮

新町天満宮は、2回ほど移転しているようだ。明治40年の火災によって登戸から新町に移転したという。

大野製作所や新町天満宮を見つけることができたが、持っていた住宅地図と照らし合わせても、遊郭があった場所が浮かび上がらない。地図には天満宮が見当たらないだけでなく、道筋も現在と違う。一体どこに遊郭があったのか…途方に暮れていた。

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貴重なお話

Victorの犬

地図と睨めっこしていても埒が明かない…。今日は引き返すかと思った時、犬の置物が目に入った。Victorの犬だ。私の祖父がVictorに関係していた仕事らしく、私も何となく見覚えがある。それにしても、今までに見たことが無い巨大なVictorの犬。

Victorの犬に誘われて、ふるかわテレビの店で働く女性に声をかけることにした。

Victorの犬
ふるかわテレビ

ふるかわテレビでは、店の前の大きなVictorの犬だけでなく、店内にも小さなVictorの犬がズラリ。これってレアなものではないのだろうか…最初はVictorの犬の話題で盛り上がっていたが、ふと千葉新地について調べている旨を話してみた。

すると、長年この場所で営業していることから、かなり当時の様子を覚えているようだ。ふるかわテレビで働いている、ご主人とその奥さんから貴重な話を伺った。

旦那さん(70代)は、最近手術をしたようで、記憶が曖昧…とのことだったが、奥さんがたくさん話してくださった。その要点をまとめる。

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千葉新地、遊郭があった場所

・遊郭があった場所は、モノレールの反対側。
・マンションになっているシティ5。
・マンションであるシティ5では、ロス疑惑の三浦が住んでいたらしい。

ロス疑惑?三浦?私の親は知っていたが、私は初耳の事件だった。

ロス疑惑→1981年から82年にかけてロサンゼルスで起きた銃殺事件に関して三浦和義にかけられた一連の疑惑。

区画整理

・大規模な区画整理が行われた。
・バブル期、そごうの設立によって立ち退きさせられたお店も多い。
・大金をもらって新しい場所で心機一転したお店も。

区画整理が行われたため、現在と昭和30年代の住宅地図の道筋が違うのだ。納得…

千葉駅すぐそばにある「そごう千葉店」は、昭和42年(1967年)に開業。千葉新町地区第一種市街地再開発事業によって、センシティタワー、そごう千葉店へと生まれ変わった。この際に立ち退きになった人たちも、かなりの大金をもらったようで、そんなに悲嘆的ではなかったようだ。

青い部分が現在の千葉そごう店。よく見ると、天満宮が中心にあったのだ。その天満宮が現在は、新町公園の近くに移転している。

昭和31年の住宅地図
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親不孝通り

・ふるかわテレビが面している南北の道路は、「親不孝通り」と呼ばれていた。
・親不孝通りの名前を知っている人は現在少ない。
・新しく引っ越してきた人が多いため。

千葉新地近くの道が、「親不孝通り」と呼ばれていた歴史があるとは衝撃的だ。親不孝通りは。繁華街などによく名付けられる名称。千葉新地ではその陰の歴史を知る人はもう少ないだろう。当時を知っている人から聞くことができたのは貴重だ。現在は、道幅も広く、明るい道になっている。

親不孝通り
親不孝通り
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千葉新地について

・転業アパートとして残っていた。
・ふるかわテレビで電化製品を設置する際、元遊郭のアパートの中に入ることがあったが、当時の部屋がそのまま残っていた。
・つぼみ、やまと…があったような。

千葉新地は、恐らく赤線廃止まで、遊郭としての機能を果たしていたのだろう。赤線だったのか、青線だったのかはわからないが、千葉新地に関する資料が少ないのが不思議である。赤線廃止後は、転業アパートとして建物がそのまま残っていたようだ。

ふるかわテレビ

・昭和40年頃結婚し、ふるかわテレビの場所へと嫁いできた。
・海が近かったため、海へと抜ける細い路地があった。
・漁師が多かったため、安い転業アパートが多かった。
・井戸がふるかわテレビの前にあって、近所の方と使っていた。

ふるかわテレビについてもお話を伺った。

井戸があった場所だろうか。店舗の前にはマンホールらしき場所。

井戸?

道祖神社

どうろくじんじゃ?とも呼ばれていた、道祖神社。こちらも区画整理の影響か、移転してきたようだ。

道祖神社

玉垣には、「ふるかわテレビ」の文字が丁寧に彫ってある。

ふるかわテレビの玉垣

そして、境内には千葉都市計画事業の石碑。区画整理が行われたことを示している。

千葉都市計画事業の石碑

当時を知る人が高齢化している現状を受け止め、積極的に聞き取り調査をしていかなければならないと実感。それも早急に。

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千葉新地(遊廓)を求めて

千葉新地の中心地、シティ5の方面へと向かった。モノレールの向こう側にあるのがシティ5だ。

シティ5

現在も変わらずシティ5がある…

遊廓の名残は無さそうな住宅街が広がっている。しかし、よく見てみると、一軒の住宅に稲荷があるのが気になった。これは名残だろうか?

そして、運よく住んでいる方に話を聞くことができた。

 

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千葉新地を知る、地元の方の話より

千葉新地だった付近の場所に住んでいる40代くらいの男性が、遊廓のことを少し覚えていた。幼少期の記憶を頼りに色々なお話をしてくださった。

追記:いくつか聞き取り内容が間違っている点があったので訂正させていただきました。

・やまと旅館は区画整理によって無くなった。
→区画整理後ビジネスホテルやまとになり、バブル期に廃業。
・自宅も元々は、漁師「かんぞう丸?」。昭和33年まで。
・神輿が千葉新地からなかなか動かなかった→他の場所よりも多くのお金を落としてくれるから。
・5年前まで遊廓に詳しい方が存命だった。現在も生きていらっしゃいます。
昭和55年くらい(小学1年生)の時に遊廓の建物は建て替えられた。
→昭和51年頃取り壊されました。
・池もあり、長屋が並んでいた。
・三浦さんは角に住んでいた。
・桃の湯は最近まで営業していた。
→昭和50年頃廃業
・現在駐車場になっているあたりにいそべがあった。
・自宅にある稲荷は祖父が制作したものだが、自宅の裏の土地が高くなっている場所に、神社があったような。

当時小学生くらいだったとのことだが、かなり詳細まで覚えているようで千葉新地の実体が浮かび上がってきた。

かつては大きな、遊廓の建物が並んでいたという通り。今はそんな面影も全くない。

かつて旅館やまとがあった場所は、広大な駐車場になっていた。

駐車場に
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千葉新地はここにあった!?

当時を知る、3人の方から話を伺い、自分なりに千葉新地の場所を推測した。

赤く囲っている部分が千葉新地だったと思われる場所。赤く塗った南北に伸びる道が、親不孝通り。緑色で囲った部分は、現在のシティ5。青い部分は、結婚式場があるところだ。大門も近くにあったのだろう。

昭和31年の住宅地図

区画整理で無くなった「旅館やまと」もかつての存在を確認できる。黄色く囲った場所以外にも、遊廓に関する場所が多かったと思われる。住宅地図から当時の様子が浮かび上がってくるようだ。

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戸渡神社(登戸神社)

鳥瞰図にも載っている戸渡神社も気になり、後日訪ねることにした。新千葉駅から徒歩5分程。登戸神社としても呼ばれている。

戸渡神社

葛飾北斎の『富嶽三十六景』にも「登戸浦」としてこの神社が描かれている。当時は、神社のすぐそばまで海だったのだろう。鳥居脇に一等水準点が設置されている。

千葉新地の遊廓の歴史、いかがだっただろうか。かなり長文になってしまったが、あまり注目されていない千葉の新町、登戸の遊廓について新たな発見があったら嬉しい。

よく書籍で紹介される遊廓の場所以外にも、まだまだひっそりと眠っている場所があるのではないだろうか。遊廓や赤線といった歴史は、表に出ることのない歴史だ。そして現在では女性差別だ、などと問題視されていることも多くように思う。しかし、当時の方々は本当にそう思っていたのだろうか?当事者になってみないとわからないが、自分の仕事に誇りを持っていた女性もいたのではないだろうか?私が同じ女性というのもあり、歴史の闇に葬られるのが納得できない。遊廓や赤線を調べている方は男性が多い気がするが、女性目線で新たな視点を持って調査できないだろうか?そんなことを思いながら、記事を残している。

今後も、後悔をしないように、当時を知る方から聞き取り調査をしていきたいと思う。

 

(訪問日:2020年6月)

 

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