「千葉市海洋公民館こじま」高洲に存在した海軍艦艇の最後の生き残りの古写真
千葉市美浜区高洲に「こじま」という艦船を活用した「海洋公民館」が存在したことを覚えている方も多いのではないでしょうか?
第二次世界大戦に参加した大日本帝国海軍艦艇の最後の生き残りでもある「こじま」。現在は解体されているものの、一部が展示されていると聞き、「高洲スポーツセンター」へ行ってきました。また、知り合いの方に解体前の「こじま」の写真も提供していただきましたのでご覧ください。
船舶「こじま」の歴史
以前、京成稲毛駅からの探索で「海洋公民館こじま」について少し触れたが、今回は「こじま」だけに焦点を当てて記事を書こうと思う。
【稲毛散策②】埋め立てられた稲毛海岸を思い出させる軍艦、大正11年創業の海の家の現在とは…
「こじま」は、海軍艦艇→掃海艦→巡視船→海洋公民館と様々な変遷を遂げてきた。
もともとは旧日本帝国海軍の鵜来型海防艦「志賀」として、昭和19年(1944)に佐世保海軍工廠で着工され、昭和20年に進水したという。千葉県から遠く離れた長崎県佐世保市で誕生したのですね…
戦後は、海軍省を改組した佐世保地方復員局所管の、機雷など海中の危険物を取り除いて航路を安全にする作業を担う掃海艦(そうていかん)に。
昭和25年(1945)に海上保安庁の巡視船となり、昭和40年に後継のこじまの就役に伴い退役。
その後は呉に係留されてたが、昭和40年に千葉市がこじまの払い下げを受けた。この時、呉市との招致争いが色々あった…といった話を聞いたが、呉に保存されていたら今は違った結果だっただろうか、と思ってしまった。
千葉市海洋公民館
呉港から千葉市稲毛海岸へ。船内を改装し、「千葉市海洋公民館」として昭和41年(1966)に開館した。
当時は海岸沿いに接していたが、後の稲毛海岸の埋め立てによって周囲が埋め立てられ、公園の池に中に全長約80mの船がポツンと浮かぶ姿に…最初見た時はどうやってこんなに大きな船を運んだのだろう?と思っていたが、海が埋め立てられたと知って、なんだか切ないなと思った。
晩年には第二次世界大戦に参加した大日本帝国海軍艦艇の最後の生き残りとして親しまれたという。
しかし、建築基準法・消防法に適さないため、平成9年(1997)に閉館。平成10年には解体撤去作業が行われ、現在跡地に高洲スポーツセンターが開館し、こじまの展示コーナーが設けられている。
地元の方々による保存運動も行われたようだが…
「こじま」の思い出
以前、こじまが存在していた当時を知る人から話を伺った時の情報↓
・近隣の子どもは、小学生の校外学習で行くことが多かった。
・船内は写真などパネルが並べられていた。
・船内はグルグル回って見学することが出来た。
1980年代、近辺で生まれ育った人によると遠足で「こじま」に行った思い出があると聞いたので同じくらいの年代の方は覚えている方も多いのではないでしょうか?
ぜひ覚えていることがあればコメント下さい~
「高洲スポーツセンター」の展示
千葉県千葉市美浜区高洲4丁目2。2020年12月、「高洲スポーツセンター」の展示を見に行った。
「こじま」があった池は埋め立てられており、面影はない…
だが、スポーツセンターの入り口に「こじま」の展示コーナーが設けられていた。
左側のポスターにもある「ちばみなと.JP」さんが愛がこもった詳細記事を書いているので気になる方はぜひ→埋立地歴史散歩01~海防艦として生まれ、最後は公民館となった船の物語~
入館は無料なのでぜひ訪れてみてほしい。
在りし日のこじまの写真も多数展示されていた。
船体内部の写真も。懐かしい方も多いのでは?講堂もあったのですね~
1998年1月、解体工事開始時の写真。
焦げ跡は、1960年代の改装工事中に起きた火災によるもの?と推測されている。解体によって新たに見えた一面…
掘り起こされた舵は、那須戦争博物館に野外展示されているらしい。
解体が進み、ポカンと穴が開いたような空間…
さらに中央には本物の部品が一部展示されている。
船蛇スタンド。ここで舵を取っていたのだろう。
伝声管が二つ。
また、野外展示も。大きな錨(いかり)!!
こじまに使用されていた錨であると説明書きにある。
この看板は、令和2年に「文化遺産こじまを保存する会」によって設置されたらしく、現在も保存活動を行っている方々がいることに敬服…
「こじま」昔の写真
知り合いの方に「こじま」の昔の写真を見せていただいた。写真をスマホで撮影したものなので画質が粗いですが、貴重な写真を見ることができて嬉しいです。
1957年、昭和32年に海難事故が起きており救助のため緊急出動した際のものだろうか。
下の写真は、東健一さんが作成した1966年当時の模型らしい。精密に造られていて本物そっくり。
以下の写真は解体前~解体中の写真と思われる。こじまの最後の姿。
本当は、1年前に訪れた時に記事にまとめる予定だったのだけれど、昔の写真を頂いてからまとめたので遅くなってしまいました。
千葉市に住んでいた方は「こじま」に対して思い入れのある方が多く、よくコメントを頂くので今回改めて記録に残しておきたく思います。ぜひ覚えている方はコメント下さい~
(訪問日:2020年12月)
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初めまして、千葉市の特に埋立地を中心に勝手に面白い文化活動をしております「ちば文化センター」のセンター長の神作(かんさく)と申します。
こじまの記事を拝見させて頂きまして、物凄い熱量とリサーチ力と素晴らしい文章で感激致しました。
文中に掲載されてる模型を作った東健一氏は副センター長、ちばみなと.jpを制作してる平澤氏もメンバーでごそざいます。
先日、「月刊埋立地」という謎の本を千葉市100周年を勝手に祝って制作致しました。
今度是非お会いしてお話など伺えたら幸甚です。
今後の投稿も楽しみにしております!
小学生の時、海洋少年団というボーイズスカウトのような団体に入ってまして、海洋公民館は活動拠点にしてました。
公民館内で宿泊して活動したこともあります。
食事はもちろん館内で自炊しました。
今となっては懐かしい思い出です。
海洋少年団、こじまが拠点だったのですね!素敵なご活動ですね。羨ましいです~!
令和4年12月1日付け日経新聞朝刊文化欄にて、こじまが特集されています。
この記事を読んで初めてこじまの存在を知りました。
見てみたかったですね!
懐かしくも残念な記憶が蘇ります。いつまでもそこにあると思っていた当時、良く見に行きました!それが突然解体すると聞いたときは、ショックでした。最後のイベントも見に行きましたが、今もその時の記憶が蘇ります。たまに那須に残された艦首と舵を見に行きます。
昔の懐かしい記憶が甦ります。小学生の頃は遠足で、プライベートでは自転車でよく訪れました。千葉市海洋公民館時代には何度も入館し、操舵室のハンドルを回したり、伝声菅に口を近づけて友達と遊んだりしていました。今も探せば入館時にもらったこじま丸のイラストが描かれたチケットがあるかもしれません。こじま丸の池には飛べなくなった白鳥か?アヒルが居たのを覚えてます。あと近所の稲岸公園のSLに乗ったり、こじま公園の向かい側にあった『高洲ストア』に行った事も鮮明に記憶に残ってます。
小さな湖に浮かんだ船と横にあったプール、どちらも行ってました。見る影もない今を見て、子供の頃の覚え違いだったのではとすら思えましたが、確かにそこにあったんですね。
稲毛公園のそばに稲毛ショッパーズという小売りの集合店のようなものがあったのですが、この単語だけは全く検索に引っ掛かりません。ただの平屋スーパーなので当たり前と言えば当たり前ですが、思い出の場所が近代的な建造物で塗り替えられているのを目の当たりにするのはやっぱり悲しいですね。
昭和55年頃、地元の子供会の夏の宿泊で泊まりました。二段ベッドだか三段ベッドでみんなで楽しく泊まった記憶があります。夜は、近くの公園で花火をしたと思います。
中学生の時にこじまに宿泊して手旗信号とかカッターの練習に励みましたよ。強制的でしたからね。
この頃はまだ船の周囲が海と繋がっていたのかも知れません。
稲毛ショッパーズ、初めて聞きました。情報が無いか調べてみますね!
地元の方からのコメント凄く励みになります!
子供会でも宿泊されていたんですね!それは絶対楽しそう!
懐かしいです。
確か10~20円くらいの入館料を払って船に続く橋?を渡るんですが、そこからもうワクワクしていました。
ミニ水族館のような部屋があり、そこの水槽にいた小さなエイをまずは見に行ってそれから甲板へ。
船室に泊まれるのはボーイスカウトの方たちだけと聞いて悔しかった!(笑)
こじま解体の時は他県に住んでいたので、朝の情報番組で知りました。
もうちょっと子供が大きくなったら連れて行こう!と思っていたので大ショックで。
千葉城のプラネタリウム、浅間神社のお祭り、こじま、こじま近くのSL、わんぱくランド。
思い出すと懐かしさでキューっとなります。