浜野町・房総往還沿いの街並み探索。船着き場跡・近代建築(煉瓦蔵)-浜野⑹
浜野駅から房総往還を北へ。今回は、JR浜野駅~蘇我駅に至る房総往還を歩き、旧道沿いの歴史を探します。かつての船着き場跡や小学校発祥の地などいくつか記念碑が残っていました。
記念碑&水神碑
千葉県千葉市中央区浜野町。前回、JR浜野駅西側の蕎麦屋さんと飲み屋街を探索したので、この後の予定は房総往還沿いの銭湯へ行くことに。途中まで歩いて、タイミングが良かったらバスに乗る予定。
まず気になったのが、房総往還沿いにある大きな碑。
民家の脇に建っている。昭和5年に「南町貯金組合」によって建てられたもの。
上部の文字は「記念碑」だろうか。大正4年に南町貯金組合が創設され、創設15周年の記念で作成されたとある。
詳しい内容が気になる方はぜひ読んでみて下さい。私は断念しました。
そしてその北側の丁字路に建つ水神碑。元々ひし形のような形なのだろうか。上の文字が読めないが、山とともに描かれている。
裏面には、昭和22年6月吉日とある。戦前の碑かと思ったら戦後のもので意外と新しくて拍子抜け。
浜野船着き場跡
先ほどの碑から北西の市に、浜野公園がある。
レトロなUFO型の遊具も、今は絶滅危惧種ではないか…子供の姿は見かけなかった。
そしてここは、浜野船着場跡とのこと。千葉市による説明看板が設置されている。
浜野は、古くから開けた海陸交通の要衝の地であり、江戸時代には生実藩領となり、年貢米の江戸への積出のため本行寺の西隣に藩の御蔵を設け、塩田川の澪を利用して港を築き、大変賑わっていたという。
その後、明治13年には浜野在住者らによって共和汽船株式会社が設立、大正中期まで蒸気船の寄港地として栄えた。小さな漁船の船溜まりだった澪は、その地形を活かして細長い公園に。昭和30年代に埋め立てられた海岸は西へと移ったため、現在は港町の面影はない…
先ほどの水神の碑も、海との距離が近かった証だったのだなあ。
その後は、東側の塩田町方面へ。途中の墓地では、この町から佐倉歩兵大五十七連隊にはいり、中国で戦死した方の功績を讃えた立派な墓碑があった。
現在は静かな町からも戦争で犠牲になった若者がいたこと、今はどれほどの人が覚えているのだろう。
塩田天満宮&生浜小学校発祥の地
房総往還沿い東側、塩田町公民館のそばにある塩田天満宮へ。
一目見た瞬間に、威厳を感じる素晴らしい佇まい。周囲の灯篭や木々のバランスも良い…
菅原道真公を祀っており、学問の神様として知られる。本堂左手には神様の使いである牛も祀られている。
天満宮といえば梅だけど、菅原道真が梅をこよなく愛していたからだそうだ。湯島天満宮の梅まつりは定期的に行っているので来年も行きたいな。
また、境内の奥にはひっそりと記念碑も。
「生浜小学校発祥の地」の記念碑!明治7年(1874)に塩田小学校が創設、おそらくその後生浜小学校に。創立百年記念事業として建建てられたものだそうだ。
引き続き房総往還へ。
塩田営業所のバス停は、1時間に2~3本。タイミングを見て、もう一本後のバスに乗ろう。
交差点手前の古い門。
小湊鐵道バス塩田営業所の裏門みたい。こちらは裏門なのか草が茂っている。
交差点の角にある時田時計店。営業中。
2021年頃まではこの辺りにも街灯があったので商店街?
向かいには、2012年のストリートビューでは昔ながらの木造の大衆食堂が…
周辺は個人商店はなく、ひっそりとしている。
バス停、塩田の裏手にある板塀のある邸宅が立派だった。
そしてしばらく北へ進むと、踏切に遭遇。JFEスチール東日本製鉄所から貨物列車が走っていた。
貨物専用の踏切?偶然出会えたのはラッキーかもしれない。ふふ。
その後もしばらくあるいて次のバス停がある鴻崎米店へ。まだバスの時間と合わないので次に進む。
もはや何で見たのか覚えていないが、この鴻崎米店が老舗でチェックしておこうと思っていたのだった。しかし、どこの資料で見たのか思い出せない…
少し進んだ右手に、かつての店舗跡?の鴻崎屋があった。
かつてはこちらで商売をされていて、新店舗に移転したのだろう。
小川沿いにある洋菓子店「アローム」。昔懐かしい昭和のケーキを販売していて魅力的だったのだが、この後銭湯に入るので断念。こういうお店好き。
スワン型のシュークリーム買ってみたい。
5車線の広い道路で房総往還は一旦分断され、引き続き旧道を北へ。
蘇我2丁目のこちらの古民家は、今年の8月に地域新聞の記事で紹介されていた。→【千葉市】歴史散歩コースに選ばれた蘇我2丁目の古民家「宮本さん宅」
大正12年(1923)年築、当時からほぼ変わらない姿を保っている。
蘇我エリアは空襲の被害があったにもかかわらず、宮本さん宅は奇跡的に焼け残ったそうです。そしてさらに気になる歴史が!
房総往還の1本向こう、湾岸道路(国道357号)から先は、かつて海が広がっていました。
宮本家は戦前、立地の良さを利用して、船便で買い付けに来る陸軍を相手に、馬の餌を納める商売をしていたと伝わっています。
なるほど、陸軍相手に馬の餌を納める商売をされていたのですね。
宮本さんが在宅であれば家の中を案内して頂くことも可能だそうで、いつかお話を伺いたい。
斜め向かいにも恐らく同じ頃の年代と思われる古民家。
2011年のストリートビューを見ると、隣の古民家では何か袋に詰められた商品が販売されている様子。宅急便の看板もあるが何を販売していたのだろう?
房総往還沿いの煉瓦蔵
そして今回の一番気になる建物が!房総往還沿いにある煉瓦製の蔵である。
右手の駐車場側の入り口の上には屋根の跡があるので何か飲食店でも営業していた時期があるのかな?
夕陽に照らされて、通常の茶色よりも黄金に近い色味へと雰囲気を変えている。素敵。
煉瓦の積み方は、イギリス積み。空気孔的な扉には「抜」?の漢字が。
蔵は現在も保管されているのか、とても綺麗な状態。蔵の右手は広く駐車場になっているので元々の邸宅は解体されてしまったのかな。
蘇我神社のバス停からバスに乗る前に、近くの蘇我比咩神社へ立ち寄る。
急いでいたので、神社の東側に蘇我小学校発祥の地碑があるが見落としてしまった。
しかも、ここでバスに乗らずもう少し北へ歩いていたら街道沿いにガラス看板がある大野屋商店を見ることができたのに…(バスに乗っていて気付いた)
仕方がないので2011年のストリートビューを。
バスは蘇我駅を通過し、寒川三丁目のバス停で下車。今回の最終目的地である銭湯「梅開湯」へ到着。
弧の近辺は街道沿いに銭湯が3軒並ぶ銭湯街道。今回は中央の一番建物が古い銭湯へ。そのレポートは次の記事にて。
銭湯入浴後はバスが車での時間、周辺を探索。銅板で囲まれたお堂。
街道を南下、食料品から菓子、雑貨を扱っていた旧古川商店。
向かいにコンビニエンスストアがあり、個人商店が壊滅状態。
こちらは並びの旧青果店。
青果店奥の建物は集会所?木々に隠れていて気付かなかったが手前にも石碑がいくつかあるらしい。
バスに乗って千葉駅へと帰路へ着く。この日もたくさん歩いたな~!
(訪問日:2021年12月)
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煉瓦蔵は今から41年か42年程前だったと記憶してますが、喫茶店か飲み屋に改築されましたよ。一度も行く事なく閉店してしまったので内部の様子は分かりませんが、窓が殆ど無いので暗い室内だったのかな?
余り劣化してないので造りがしっかりとしてたのでしょうか?
情報ありがとうございます!飲み屋だったのですね。今は使われていないのですかね、古民家カフェ流行っているので利用したいですね。
隣の古民家は、卵や梅干しを売っています。
その向かいの煉瓦蔵は、昭和30年代の住宅地図では、醤油味噌山本山とありますので、そちらの蔵ではないかと思われます。